『悔恨の果てに』1

2020.2.26 更新 《【プロローグ】【第一章】【第二章】【第三章】》

         

                                   松下真美  著


【プロローグ】


「もし、10年前のことさえなかったら……」

 この思いはずっと変わっていない。

 いや、鬱屈とした心に比例して増大していった。憎しみと恨みを伴って……。


 ここは19世紀後半のヨーロッパの、ある王国――。

 その少年は17歳。輝く金髪、深い湖水のような青い瞳を持っている。

 少年の名はアルダーク・ウィシュナー。

 ウィシュナー家は、この王国の貴族の一員である。彼はウイシュナー伯爵家の長男として生まれた。後継者であるはずの身である。だが今の伯爵家に彼の姿はない。

 生来、病弱であった先代ウィシュナー伯爵は一昨年の秋に亡くなった。

 本来であるならば、そのとき15歳で爵位を継ぎ、後見人や家臣たちに囲まれ、何不自由なく暮らしていたはずだった。しかし本邸の屋敷に近づくことはおろか、外出することもままならない状況にあった。

 彼は、郊外の継母の別荘に幽閉されていた。

 そう、10年前のあの日から……。

 つまり、爵位どころか、父の最期にも会えず、葬儀の参列すら許されなかった。

 少年アルダークは、父を思い出し涙する。

「父上、無事でいることを知らせることも出来ず、今一度、お会いしたかった」

 そして、次には、

「あの女。……あの女さえいなければ、ぼくはここにはいなかった。父が倒れたとき、付き添うことさえしなかったと聞いている、許しがたい……。いつか、いつか、復讐してやる。……殺しても足りないくらいだ!」

と、憎悪の念を露わにするのであった。

 アルダークがそこまで憎む「あの女」とは、いうまでもなく彼の継母のことである。



【第一章】 狂わされた歯車


 アルダークの運命が、一瞬にして変わってしまったのは10年前――。

 10年前、彼は伯爵家の長男として何不自由ない生活を送っていた。

 三人兄弟の一番上で、当時、7歳のアルダークには2歳下の妹のアルデーヌと、1歳になったばかりの弟アルナンがいた。三人はとても仲が良く、屋敷には笑いが絶えなかった。

 その生活を壊したのは、彼らの継母、ロザーヌ。

  ヒスカール子爵の娘で、ウィシュナー伯爵の再婚相手である。当時25歳の若く美しい彼女は、才媛で、『王国一の女性』とうたわれるほどの女性だった。

 ウィシュナー伯爵は28歳。年齢的にもつり合っていた。

 アルダークたちの実母で、前夫人であるセシリアは、前年、アルナン出産後に産褥熱で亡くなったため、一周忌が明けてすぐに、結婚式を挙げた。

 皆、喜んでいた。

 だが、そもそも、この結婚自体が間違いだったのである。

 再婚相手のロザーヌは、外見こそ『美しき才媛』だが、性格は、嫉妬深くて陰湿で、自我我欲の強い女性だった。

 ウィシュナー伯爵は、誰もが「一番」だとほめたたえる彼女よりも、セシリアの残した三人の幼い子どもたちを、目の中に入れても痛くないほど可愛がっていた。

 伯爵にすれば、幼くして実母を失った子どもたちが不憫でならず、父親として精一杯の愛情を注いでやりたかったに過ぎなかったが、ロザーヌは、それがどうしても許せなかったのだ。

 憎しみは日に日に増大し、親子の間に入っていけない焦りといら立ちは、いつかロザーヌの心の奥に闇を作り出していった。

「殺してやりたい。いや、殺せない。そうだ、二度と父に会えないようにしてやる。憎い。このわたしをないがしろにして……。ああ、憎くてたまらない」

 そしてついに彼女は、自分のために忠実に働く部下、および侍女を数人ずつ集め、三人を連れ出した後、行方不明にしてしまうという恐ろしい計画を実行したのである。


 ある晴れた日の朝、郊外にあるロザーヌの別荘に三人の子どもたちが招待された。

 ウィシュナー伯爵は諸用で参加できなかったが、もちろんロザーヌの計画通りだった。

 三人の子どもたちはこの招待をとてもよろこび、楽しく過ごした。別荘といっても本邸より少し小さい程度の豪華なお屋敷だった。

 昼食は何事もなく終わり、午後3時、ついに事件は起こる。

 庭のテーブルでティータイムを過ごそうとした矢先、一人の侍女がアルナンを抱いて、テーブルとは逆方向へと走って行った。

「アルナン! お継母様! 早く追い駆けなくっちゃ!」

 アルダークの叫びに、ロザーヌは「無駄よ」と言って、それまで見せたことのない冷たい笑みを浮かべた。

「お継母……さま」

 アルダークが異変に気付いた。

 いつもと違う継母の形相。連れ去られた弟……。彼はたじろいだ。

 そして次の瞬間、

「お兄様、助けて!」

 妹、アルデーヌの悲鳴が響いた。

 黒づくめの男がアルデーヌを抱え、連れ去って行く。

「アルデーヌ!」

 走り出そうとするアルダークは、背後の男に捕らえられ、身動きが取れない状況になった。

「お継母様。いったい二人をどこへ」

「もちろん。目の前から消えてもらうためよ。わたくしはあなたたちが大嫌いなの。殺したい、殺したいくらい……」

ロザーヌは唇をキュッと結び、握った拳を震わせる。

「でも、殺さない。……厄介ですもの」

 そして、ふんと鼻を鳴らす。

 ついにロザーヌは本性を露わにした。さらに続ける。

「アルナンは、この先の森に捨てるわ。夜は狼が出るらしいけど……。わたくしは知らないわ。アルデーヌは懇意にしている御用達パン屋に奉公に行ってもらう。つらい下働き生活が待っているのよ。いい気味。奴隷制度がない国で良かったわね、でもわたくしは残念だけど。ほほほ」

 アルダークは衝撃の真実を聞かされ、項垂れた。

 7歳の子どもにはどうすることも出来なかった。

「さて、アルダーク」

 ロザーヌの声は、冷たく残酷だった。

「分かってるでしょうけど、あなたも、ただでは済まないわよ」

「ぼくを、どうする気?」

「そうね。一生、ここの別荘の留守居役をして貰おうかしら」

「どういう意味?」

「ここの別荘は、不吉な場所として封鎖するわ。門番と家政婦を付けてね。ここの部屋ってね、外側からしか鍵が掛からないの。そういう作りなの。あなたはここで留守番よ。閉じ込められたまま、そこで死ぬまで暮らすの」

「いやだ! 離せ!」

「トイレとバス。家政婦一人。なんの不便があって?」

「いやだ! それじゃ牢獄じゃないか!」

「そうよ。なかなか頭の良い子だけど、やっぱり7歳の子どもね、駄々っ子は、黙らせなくては……」

 継母の言葉が途切れたと同時に、頭に衝撃を感じ、アルダークはその場に倒れる。

 薄れていく意識の中で、いなくなった妹と弟の姿が浮かぶ。

 そして、甲高い笑い声が、どこまでも追いかけて来るようだった。




 アルダークは、その後、三日間眠り続けた。

 だが、継母ロザーヌの行動は早かった。ドレスを破り、身体、顔に包帯を巻き、重傷を負ったかのごとく振る舞うと、ウィシュナー家に戻った。

 その様子を見たウィシュナー伯爵は動揺した。

 ロザーヌは興奮し、泣きじゃくっている。妻を見舞った伯爵は、必死で心を押えてロザーヌを落ち着かせようとする。

 ロザーヌは、泣く泣く話し始めた。

「あなた、子どもたちが……。子どもたちが……」

「落ち着け。何があった?」

「別荘にいるとき、突然、怪しい集団が……。腹心の部下たちもみんな襲われ、子どもたちを連れ去ってしまって……」

「なんと!」

「必死で追いかけたわたくしも襲われ……。ああ、子どもたち。連れ去られた子どもたちは、もう、もしかしたら……」

 それ以上は言葉にならない、というほど嘆き悲しんで見せた。

「自分を責めてはいけない。あなたが無事で何よりだ。ああ、でも、子どもたちには、なんて詫びればよいのだ。……あのとき、わたしも行けばよかった。わたしがいればよかったのだ」


 ウィシュナー伯爵は、それから七日間、自室から出てくることはなかった。ずっと、ただ亡き妻セシリアと、子どもたちの肖像を、ぼんやりと眺め続けていた。

 こうして、ロザーヌは邪魔者を追い払うことに成功した。 高笑いしたい気分である。



 アルダークは、長い眠りから目を覚ました。

 すぐにあの日のことを思い出したが、それが夢でないことは自分が置かれているこの状況、この部屋を見れば明らかである。

(だれか、居るの?)

「……」

「……!」

 そのとき、アルダークは自分が一言も声が出ないことに気づいた。

(声が出ない……。どうして?)

 不安な心を抱き、部屋の中で走り出した。すぐに窓辺に当たる。カーテンをめくると、まだ明るいことに気づく。

(今、何時なの?)

 部屋に時計はなく、声も出ず、不気味な静寂だけが過ぎていった。

 すべてが絶望的になったとき、アルダークは泣いた。

 声は出ないが、思い切り泣いた。

 今まで以上に泣き続けた。

 先行きの不安、恐怖さえ感じる静寂。耐えられない重圧に心が潰れてしまいそうである。

 一生分の涙を流したと思ったアルダークは、いつか泣き疲れ、眠ってしまった。

 何時間が経ったのだろうか。

 アルダークは目覚めたとき、声がした。

「大丈夫?」

 かわいらしい声がした。

 アルダークの目の前には、妹アルデーヌと同じくらいの栗色の神をした少女が立っていた。






【第二章】 牢獄の天使


目の前の少女を見たとき、アルダークは、自分は死んだ、と思った。死んで、天使が迎えに来たのだと……。

 だがこの少女には、宗教画の天使のような羽根も輪もなかった。

(生きてる女の子? なぜ、ここに……?)

「大丈夫?」

 少女の問いに、アルダークは、うなずいた。

 その途端、少女は明るい笑顔を見せた。アルダークは、一瞬、どきりとした。

「アルダーク様、今日あたり起きるかもって思ってたの。今ね、お母さんがお食事の用意してる。わたしね、ミリーっていうの。よろしくね」

 ミリーと名乗った少女は、エメラルドグリーンの瞳をアルダークに向けている。

(ああ、家政婦の娘か。……一瞬、天使かと思った)

 今まで、使用人に息子がいようが、娘がいようが、知ったことではないと思っていた。

 そのとき、部屋のドアがノックとともに開いた。

 栗色の髪をきっちりと束ねた二十代半ばの女性が入ってきた。

「はじめまして。家政婦のリュゼと申します。こちらは娘のミリアム。ミリーと呼んでいます」

(ああ、小さいから愛称のほうの名前を憶えていたのか)

 ぼんやり、大人みたいなことを考えていたアルダークの耳に、リュゼの意外な言葉が飛び込んできた。

「アルダーク様。家政婦用の食堂で良かったら、そこで食事をしません?」

(えっ、でもぼくは……)

「わたしは子どものころ、ロザーヌ様に拾われた身です。一歳しか違いませんが……。わたしの力は非力です。外出時は、門番に監視されるので、外へは連れ出せませんが、屋敷内は、可能な限り、自由にしてあげたいのです」

 もう涙は涸れ果ててしまったと思っていたのに。

 アルダークの湖水のような瞳に涙が浮かび、頬を伝う。

 涙が止まらなくなり、戸惑うが、それでも声が出なかった。

「あの、アルダーク様。さきほどから一言も話されないのは、……もしや口が?」

 リュゼの言葉にアルダークはうなずく。

 リュゼは、アルダークを抱きしめた。

「お可哀そうに。……まだ七歳だというのに、こんなお辛い目に合われて……。心が耐え切れずに悲鳴を上げてしまったのですね。でもわたしで良ければ、いくらでもお力になりますわ」

 声の調子で、この女性リュゼが泣いているのがわかる。

 普段なら「使用人のくせに!」と、怒るところだ。

 そうしなかったのは、自分がこんな状況にあるにも関わらず、優しく接してくれる人がいることが嬉しかったから……。自分のために泣いてくれる、こんな人を見たのは初めてだった。

(今までに会った人で、こんなに温かな心を持った人はお母さまだけだった)

 父、ウィシュナー伯爵からも寵愛されていたが、『温かい』という感じではなかった。

 目覚めて、わずか数時間……。

 この間に、アルダークは今まで知らなかったことを知った。

 妹と弟の行方は気になるが、消息は掴めないこと。

 家政婦母娘から、本物の寄り添うような優しさがあると知ったこと。

 そして、身分で人を見てはいけないこと。

 闇しか見えなかった中の一条の光。

 アルダークはその光を信じた。

 光の先にある未来を祈りながら……。


 家政婦の用意したものは、パン粥だった。

「本当はもっと出すべきですが、アルダーク様は三日間眠っていらっしゃったので、軽いものから召し上がったほうが良いと思います。温かいうちにどうぞ」

「じゃあ、お母さんも座って。食事前は神様にお祈りしなくっちゃ」

 ミリーの声で、リュゼも席に着いた。

「主よ。今夜も食事ができますことを感謝いたします。主のお恵みを心より感謝して、有り難くいただきます」

 リュゼが祈り終わると、食事が始まった。

 アルダークは、なかなかスプーンを取らなかった。

 おなかが空いていないわけではない。眠っていたとはいえ、三日以上、何も口にしていないのだから。

 リュゼが気づき、

「すみません。お口に合いませんか?」

と、声を掛ける。

 アルダークは、ハッとしてリュゼを見る。すぐに、大きくかぶりを振ってスプーンを取って食べ始めた。

 柔らかいパンとミルクの優しい風味が口の中に広がった。

 それはとても美味しいもので、おかわりまでもらうことになるとは思いもよらないほどだった。

 アルダークは、リュゼに話しかけられるまで、別のことを考えていた。

(主……神様って、本当にいるのかな?)

 今まで、神様の存在を疑いもしなかったし、日曜日には教会への礼拝にも必ず参加し、家族で祈りを捧げていた。

 それなのに、疑いの心が止まらない。

 リュゼに聞けば教えてくれるだろうが、口が聞けない今は、なんの伝達手段もない。

 アルダークは、もどかしい思いを抱きながら自室に入った。

 眠くはなかったが、ベッドでゴロゴロしているうちに眠ってしまった。


 翌朝、アルダークは、小鳥の囀りで目覚めた。

 カーテンを開けると、早朝の柔らかい日差しが入ってきた。小鳥たちが驚いて飛び立つ。

(あの小鳥たちだって自由に空を飛べるのに、ぼくは外にさえ出ることができない)

 そのとき、パタパタと足音がして、家政婦の娘ミリーが入ってきた。ドアの鍵は掛かっていないようだった。

「アルダーク様、おはようございます」

 ミリーの愛らしい様子に、自然と笑顔になれる。

 アルダークは、そのまま礼をした。挨拶のつもりだった。

 彼は、家政婦用の食堂に、ミリーと一緒に降りる。その様子を見ていたリュゼが声を掛けた。

「おはようございます。今日の朝食まで、パン粥にしましょうね。よろしいですか」

 アルダークはうなずいた。

 夕食同様、朝食も祈りから始まった。

(……パン粥を食べたのは、昨夜が初めてだった。美味しいものだった)

 そんなことを思いながら、今朝のパン粥にもまた快い優しい味を感じている。

(そういえば……)

 食事のときも、リュゼはいろいろ話しかけてくれたが、すべて『yes』か『no』で答えられるものばかりである。

 つまり口が聞けなくてもコミュニケーションがとれるよう、気持ちを汲んでくれているのだ。

「アルダーク様。ミリーと遊んで!」

 可愛らしく、ミリーがまとわりつく。

 アルダークは笑顔でうなずくと、ミリーに連れられて、各部屋を見て回った。


 自室の隣の部屋は、書斎のようである。いくつもの書架に、いくつもの本が規則正しく大量に並んでいた。

(うわー。すごい本の量だ)

 アルダークは驚きを隠せない。しかし驚くのはそれだけではなかった。

 なんと、奥の扉はアルダークの自室の入口になっていたのだ。

 つまり、部屋の中から書斎へは出入り自由なのである。

 最近掃除されている様子をみると、リュゼが行ったのだろう。

 アルダークは、近くにある本を一冊手に取って開いた。経済学の本である。

 二、三頁めくって、元の棚に戻した。

「むずかしいの?」

 ミリーが聞いてくる。アルダークは、素直にうなずいた。

「……字は? 読めるの?」

 アルダークは、もう一度うなずいた。

「わあっ! すごいっ」

 素直に喜ぶミリーを見ていると、妹アルデーヌのことを思い出す。自分と同じ金髪に青い瞳で、人形のようにかわいい女の子であった。

(会うことが出来ない妹。ぼくにできることは、ただ無事でいてほしいと祈るだけ……)

 そして再び思う。

(神様っているのかな……?)

 そう疑問に思うことが矛盾した考えだと、アルダークは気づいていない。しかし、妹思い、弟思いである彼が二人のことを考えるのはごく自然なことだった。

「アルダーク様?」

 ミリーの声に「はっ」と我に返った。

「どうしたの? 大丈夫?」

 アルダークはうなずくと、笑顔を向けた。

「アルダーク様、前はおしゃべりができたって本当?」

 同じようにうなずくが、ミリーの意図がわからない。

「わたしね、もし、アルダーク様とお話できたら、字を教えてほしいの」

(そういうことか)

 笑顔でうなずくと、ミリーは喜んだ。

「きっとよ、約束ね」

 しかし今のところ、声が出そうな気配はまったくなかった。


 アルダークが声を失ってから、三か月が過ぎた。

 書斎にどんな本があるのかを探すのが日課である。

 ただし、遊び要素が多いので、はかどらない。別に急ぐことでもなかったし、ミリーが可愛らしくついてくるので、内心は嬉しかった。

 ある日、古い書架の本を出していたとき、上に置いた本がバランスを崩して落ちそうになった。

「ミリー! 危ないっ!」

 アルダークは叫ぶと同時にミリーを抱え込み、落ちてくる本から守った。

 本はアルダークの背中に、ばらばらと数冊落ちてきた。

「アルダーク様、大丈夫?」

「ミリーは? 怪我しなかった?」

「うん、大丈夫。……え」

 ミリーはぼんやりとアルダークの顔をのぞく。

「アルダーク様、声……」

 ミリーの声で、アルダーク自身もようやく気付いた。

「本当だ。……口が聞ける」

 そのとき、リュゼが血相を変えて入ってきた。

「大きい音がしたので来てみたのですが、大丈夫ですか? 本が背中に落ちてきたのですか? 湿布をしましょうね」

 心配するリュゼに、アルダークは声を掛けた。

「リュゼ」

「えっ?」

「大丈夫だよ、ありがとう」

「アルダーク様!」

 リュゼは息を飲んだ。

「声が……話せるようになったのですね。……良かった」

 涙ぐむ彼女の興奮が伝わってくる。

「リュゼ、ぼくはいつも思っていた。声が出るようになったら、真っ先にリュゼにお礼を言いたかった。……リュゼ、ありがとう」

「もったいないお言葉です」

 ハラハラと泣くリュゼの肩に、アルダークは優しく手をかけた。しゃがみ込み泣くリュゼの肩に手をまわし、抱き着いたのである。

「アルダーク様」

 リュゼもアルダークを抱きしめた。

 そのリュゼの袖をミリーが引いた。

「お母さん、わたしも『ギュー』ってして」

「いいわよ。いらっしゃい」

 リュゼは右手でアルダークを、左手でミリーを抱きしめた。

「二人とも、わたしの大事な宝物よ。神様が授けてくださった天使たちだわ」

 アルダークは心の中でつぶやいた。

(違う。天使は、リュゼとミリーだ)

「大丈夫?」

 ミリーが声をかけてくる。

 少し癖のある栗色の髪とエメラルドグリーンの瞳。愛らしい容姿のミリー。

 外見だけでなく、心も純粋で無邪気な、気持ちの優しい天使そのものだ。そしてリュゼは本当に心の清らかな女性だ。

 初対面のとき、抱きしめてくれたリュゼの心の温かさが忘れられない。

 信仰心も篤く、まさしく『天使』という言葉がふさわしい。

(二人がぼくの天使だ。ぼくはこの二人に救われたんだ)

 この牢獄のような生活を強いた継母―ー。

 だが今は、その継母を恨むより、二人の心の優しさに感謝したい。

 ただそれだけだと、アルダークは考えていた。




【第三章】   神様を信じること




 アルダークは話せるようになったことで、世界が変わったと感じるようになった。

 今まで聞きたいことがあり過ぎて困っていたことが、すべて解決するのだ。ワクワクする気持ちが押えきれない。

アルダークは、質問責めにするのも気の毒だと思いながら、ミリー相手に字の勉強を始めた。

 書斎の本は難解なものばかりでなく、童話の類いも数冊あったので、その本の朗読から始めた。

 ミリーは何度も読み聞かせをせがんでいたが、やがて話の筋を覚えてきた。

 自然と本に手が届く。そして、話の筋と照らし合わせて、文字を拾っていった。

「アルダーク様、少しなら読めるようになったのよ!」

 ミリーの声が嬉しそうに響く。

「でも、すごいね、ミリーは。五歳でこれだけ読めるなんて。驚いた」

「わあい、ほめられちゃったっ」

 アルダークは、声が出るようになって、ミリーに年齢を聞いた。

「きみは何歳?」

「わたし、五歳」

(やっぱり、アルデーヌと同じ年だ)

 アルダークは思った。

(アルデーヌも本の読み聞かせをせがんでいたな)



『お兄様、これ読んで』

『えーっ、なんでだよ、侍女に読んでもらったら?』

『お兄様がいいの! よ・ん・で!』

 そうまで言われたら嫌とは言えない。

 いつも最後は、ぼくが妹の相手をしてあげていた。


 読書が疲れたのか、ミリーは書斎の椅子に座ったまま眠ってしまった。

 そっとしてあげよう、とアルダークは部屋に戻って行った。

「アルダーク様、ミリーと一緒では?」

 リュゼが部屋に入り、声をかけてきた。

「書斎で寝てる」

「まあ、お邪魔してしまって。申し訳ありません」

「ううん。ミリーと一緒にいると、とても楽しくて……」

「まあ、アルダーク様にそう言って頂くなんて、光栄な子ね。ミリーも」

 リュゼは書斎からミリーを抱き上げて戻ってきた。

「寝かせてきますね。そのあと、買い物に行ってきます。一人っきりにして、ごめんなさいね」

 アルダークは首を振った。

「ひとりだから、シャワーを浴びてる。だからいいよ。気をつけて」

「ありがとうございます。それでは行ってきますね」

 アルダークは、昼間一人になると、シャワーを浴びるときがある。閉じ込められている身なのだが、室内に浴室があるのは嬉しかった。

 リュゼは、いつも洗ったものを畳んで、着替えの準備をしてくれていた。

 シャワーを浴びると眠くなった。

 ベッドに転がり自然に眠ってしまう。

 家にいるときは、入浴も着替えも必ず他人の手を借りていた。何一つ自分で出来なかった彼は、今は、一人でこなすようになった。ずっと一人で着替えるうちに、自然と身についてしまったのだ。

(ひとりで着替えるなんて考えられなかったな)



 目覚めたときは夕方を過ぎていた。

 外は、夕日が落ちた直後のような薄暗さが広がっている。

 この時間になると、決まってミリーが駆けてくる。夕食ができた合図にもなっている。

 

 この日もリュゼの祈りから始まった。

(神様って本当にいるのかな?)

 アルダークは、以前より以上に、そう考えていた。だが、何も聞けなかった。

 以前は伝達手段がまったくなかったが、今なら口が聞ける。

(でも、夕食どきには話せないな)

 彼は躊躇していた。




「アルダーク様?」

 不意に名前を呼ばれ、アルダークは顔を上げた。

「何か悩みがおありですか? 考え事をしているようですが、……わたしで良かったら、相談していただけませんか?」

(リュゼは、何もかもお見通しだな)

「たいしたことないんだ。また今度。……夕食どきに話すことでもないし」



「……また、話したくなったときにしましょうね」

 リュゼは笑顔で答えた。

 その日はそのまますぎていった。



 そして、その日はとてもよく晴れた日だった。

 一緒に遊んでいたミリーが眠ってしまったので、アルダークは屋敷内を散策していた。

 中庭で、リュゼが洗濯物を干している。アルダークは中庭に向かった。

「リュゼ」

 アルダークの声かけに、リュゼは笑顔で応えた。

「アルダーク様、ミリーは眠ってしまったのですか」

「あ、あの、リュゼ」

「はい?」

 アルダークは、今なら聞けると思った。

 ずっと心に残る疑問。そして、その答え―ー。

 アルダークは、リュゼに尋ねた。

「リュゼ。変なことをきくけど、いい?」

「ええ。よろしいですよ」

 アルダークは、息を吸い込んだ。

「リュゼ、神様って……本当にいるの?」

「え?」

 思いがけない質問に、リュゼは驚き、返答に困った。

 アルダークは、リュゼを見つめて黙っていた。

 不自然な静寂が二人を包む。

 やがて、リュゼが話し始めた。

「アルダーク様は『神様はいない』って、思っていらっしゃるの?」

 越えは穏やかで、笑顔を見せている。怒っていないようだ。


「ぼくは、いつも日曜日には教会に行っていたし、お父様、お母様と、お祈りしていたのに……。でも、どうして助けてくれないの? それとも、ぼくが『本当にいるの?』って思ったから、神様を怒らせたの?」

 途中から泣き声になっている。

 その姿はあまりにも痛々しく、ミリーまでも泣きそうになった。

(こんな特異な環境に置かれたのだから、そう思われたって不思議ではない……)



「大丈夫ですよ。アルダーク様。あなたは今も、神様の愛の中に居るのですよ。もちろん、怒ってはいらっしゃいません」

「でも神様って見えないのに。どうしてわかるの?」

 アルダークは、手で涙を拭いながら、言った。

「アルダーク様。世の中には見えないものは沢山あります。たとえば、空気や風。そういったものは、見えないでしょう」

 リュゼは教師のように優しく諭す。

「でも、あるのはわかる」

「そうですね。ほかにも、心、愛、善、美、真―ー。取り出して見せることはできませんが、それを疑う人って、居ませんよね?」

「うん」

 

「アルダーク様、こんなことになっているから、神様の存在を疑うようになってしまったのですね。でも、居るか居ないかと言われたら、答えは『いらっしゃいます』としか言えませんね」

「神様は居るの?」

「ええ。太陽が暖かく照り、普通に息が出来、食事も頂ける。何より元気で今日も生かされている。そう考えていると、この世界は感謝することが沢山あるのですよ」

「今日も……生かされている……」

 リュゼの言葉を反復していた。

 自分は、この世界に生きているのではなく、生かされている。そういった存在だとーー。



「リュゼ、ぼくは神様に生かされているの?」

「はい」

「ぼくは、この世界に生かされて、感謝しながら一日過ごせばいいの?」

「はい」

「でも、どうして助けてくれないの?」

 一番言いたかった。一番聞きたかった。

 どうして神様は助けてくれないの―ー?


「アルダーク様、人間は生まれる前に、この世の人生計画を立てて生まれてきます。人生計画を生きていくとき、いくつもの問題が出てくるのです。そして、それをひとつずつ解いていくのです。そうですね。人生って、一冊の問題集みたいなものなのですよ」


「問題って? なんでそんなものがあるの?」

「人生は、最初から最後まで、何の問題もなく終わるものではないのです。人間には魂というものが宿っています。これも目に見えません。わたしたちは、魂の修行をしているのですよ。そして、心を輝かせることが出来るように……」

「魂と……心」



 アルダークは、どうして神様の存在を疑問視していたのか、そんな気持ちになった自分自身を不思議に思った。



 今の、不遇としか思えないこの身をみじめに思い、自己憐憫の心で観ていた自分。

 ……でも、本当は、今でも自分は神様に生かされているのか。そしてこの世は、自分の魂を鍛えるための修行の場なの。

 今、ぼくは、ただ自分の問題を一つずつ解いている。

 その真っ最中だというの……。



 大いなる神の愛を改めて感じたアルダークは、泣くつもりもないのに、涙が頬を濡らていた。

「リュゼ」

「アルダーク様」

「ぼくは、どうして『神様っているの?』って思ったんだろう。僕はこの世に生かされている。……神の愛の中に居たんだ。今も……」

 リュゼは黙ってほほ笑んでいる。

「リュゼ。ぼくは『神様がいる』って、今なら思える。ぼくはもう一度、神様を信じることができる!」

「アルダーク様」

 リュゼは、優しく名前を呼んだ。

 だが、それ以上は口にせず、ほほえみを絶やさなかった。





 この日以来、アルダークは以前よりも信仰生活を熱心に送ることとなった。

(ぼくは、神様に生かされている)

 そう思うだけで、うれしくなった。

 自分の存在の意味も分からず、迷路の中にいたアルダークは、迷路から抜け出たような解放感を味わった。もちろん、今の状況が、突然変わることはないが、この家の中でも感謝することはできた。


(リュゼが優しく教えてくれてよかった。やっぱり、ぼくの天使なんだ)


 初めて会ったときから、優しく接してくれたリュゼと、娘のミリー。

 この二人がいなかったら、自分は絶望の中でもがき続けていただろう。

 ―ー声も……まだ、出なかったかもしれない、と思うと、恐怖さえ感じる。だか、そうならなかったというだけで、アルダークは救われていた。


 そしていつも通り、ミリーと遊んで、ときには一緒に昼寝して、それだけでも以前と違う新鮮さを感じていた。



 アルダークの心が軽くなった様子を見たリュゼは、

「以前より、明るくなりましたね―」

 と、声を掛ける。

 するとアルダークは、

「リュゼのおかげだよ。ありがとう」

 と、笑顔で返事をした。



 ここまで快活になった(もとは明るく快活だった)アルダークは、考えていた。



 ぼくが憎しみと恨みの塊となったのは一体……。



 多分、このリュゼ母子と一緒にいた期間が、アルダークにとって、もっとも幸せな時間だっただろう。

 だがこの後に起こる悲劇を、当時七歳のアルダークは、、まだ知る由もなかった。


 しかし、三年後、この幸せは崩れ去ってしまうのである。






     【第四章】   別れ




 何事もなく三年が過ぎた。

 アルダークは十歳、ミリーは八歳になっていた。





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『悔恨の果てに』1    了

プロローグ

第一章

第二章

第三章











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